Cool Japan

秋葉原・日本最大の電気街。オタクの街。最近はオフィスビルも増えた。もう何が電気街なのか分からないが、江戸川区の小岩地域に引っ越してからは、秋葉原まで一本道なのでよく通うようになった。

主に中古スマホを物色しに。

秋葉原に何回か行った人ならわかると思うが、中国人観光客が大型バスから降りてくる光景も見たことあるだろう。中央通りにずらーっと観光バスが並んでいる。2台とかじゃなく。2台3台4台5台……。1時間2時間で動きそうにない。万世橋のパトカーも横を通過していく。これは道路交通法に定められた「停車」がややこしいからだ。

車両等が客待ち、荷待ち、貨物の積卸し、故障その他の理由により継続的に停止すること(貨物の積卸しのための停止で五分を超えない時間内のもの及び人の乗降のための停止を除く。)、又は車両等が停止し、かつ、当該車両等の運転をする者(以下「運転者」という。)がその車両等を離れて直ちに運転することができない状態にあることをいう。

道路交通法 §2-18

これは人の乗り降りであれば、駐車ではなく停車と解釈できるのだ。少し強引だが、それが3時間でも8時間でも。

中央通りの一本横で、横断歩道に乗っかって駐車していた運転手に話を聞いてみた。ここは駐停車禁止。二種免許があるなら当然理解しているはず。バイクに乗っていたので、フルフェイスのヘルメットをかぶって。

「ここ停められませんよ」
「じゃあどこ停めろゆうねん」

………………駐車場だと思いますよ。気持ちはわかりますけど。

おそらく、秋葉原は一定の時間のなかで自由に徘徊してもいいのだろう。だからバスがずらーっと並ぶ。日本人も中国人も英語が危うい。全員が何時に帰ってくるか分からないから(ちょっとした体験談で申し訳ないが、夜行高速バスであったのが休憩時間 15min と運転手がアナウンスしたところ、その時間に帰ってこなかった。運転手が探しにいったところ、あのときは推測ではあるが夜の9時15分と勘違いしてレストランにいたことがあった)停めておく。飽きた人から順に帰ってくる。コンビニで買った日本の料理を楽しんだりするのかもしれない(実はケバブだったりしてな、秋葉原だし)。全員が帰ってくる時間帯も分からないので、限られたバス駐車場に行けもしない。

中国人観光客には当然日本の免税が受けられる。ただこの手続き、店員にとって非常に分かりづらい。

セブンイレブンなんかは自動化されているらしいが、免税を掲げる普通のお店にはない。乗員上陸許可書?それってパスポートとは別なの? 購入者の所持する旅券等の種類及び番号? 輸出物品販売場を経営する事業者の氏名又は名称? 輸出物品販売場を経営する事業者の納税地及び所轄税務署名、輸出物品販売場の所在地? 購入年月日? 品名、品名ごとの数量及び価額、物品の価額の合計額? 購入後において輸出(消耗品は30日まで)することを誓約する購入者の署名?

日本人も中国人も英語が危うい(2回目)。コミュニケーションができない。慣れている人でも10分くらいはかかる。ご丁寧に手書き致します。税関のために。税関のために。ほとんどの店員は慣れていないからもっとかかるだろう(ダイコクドラッグに免税手続き専用レジが必ず1つあるのはこれだろうな)。

外交特権として(租税特別措置法 §86)、外国公館等に対する消費税免税店舗(Designated Store 通称DS)なんてのがある。外交官は税金かからないから消費税もかからないよね。DSマークは肉のハナマサで見たけど、実際の手続きは思っている以上に面倒だぜ。飲み物1つ買うのに外国公館等用免税購入表に記入しなきゃいけないのか? Japan は書類文化だな。 8%くらいは払うよ。って人が多いんじゃないか。

ただまあ、中国人観光客が「爆買い(もはや死語)」するときに8%と0%の違いは大きい。

国と国との争いとは違い、中国人はわりと旅行先として日本のことを評価しているようだ(ある調査では1位だとか)。日本人は中国人観光客を煙たがらず、消費行動ありがとうくらいの気持ちで見守るべきなのか、そうでないのか。

さて、地元中国から日本に観光に行くと聞いて現地の友人がかける声はなんだろう。

かつて日本人が海外に行くと行ったとき、旅行先として人気ながら、実はこんなことが……みたいな話がある。まだ平成の時代に。当時日本で駅や病院、いたるところで一斉に掲示されたポスターがある。制作サイドとしてはあくまでブラックユーモアで突き通したが、これを見てはたしてどれほど不快に思わない人間がいるだろうか。

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朝日新聞1991年12月9日 第二面)

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(エイズ情報ネット)

男性が顔をパスポートで隠す写真の上に「行ってらっしゃい、エイズに気をつけて」の文字。平成3年はこれが許されたらしい。当時はHIVへの偏見解消真っ最中だったはずなのに。

今でもタイやフィリピンに一人で出かける男性を見かけると「おみやげくれよー」と言いつつも、買春だな、と思ってしまう自分がいる。日本でやっちゃだめなことも、海外でやれば日本の警察に捕まらないのだから。それが正解なのかはわからないが、現地の人たちは日本人の夜の過ごし方をどう思っているのだろう。タイ人の人気旅行先は日本だとか。

さーて、どうだか。

19歳の彼女が自殺したことと、それについて





全ての自殺は、100%防げたはずでした。


11月の終わり。秋なのか冬なのか分からない時期に、人が適当にしばったトレンチコートの紐を結び直してもらった彼女のアパートに向かった。

大学に学籍は置いていたが、ろくに通っていなかった。就職活動前提のカリキュラムにうんざりしていた。将来未確定でぼけーっと過ごしていた。

駅前のスーパーで適当に食材を買い、彼女と昼ごはんか夜ごはんかを作って食べようとしていた。食器足りるよなーとか考えつつ、アポ取らずにふらっと訪問する迷惑な奴。彼女はたまに家の鍵を締め忘れてた(女子大生としてあかんでしょ)ので、不在でも鍵さえ空いていれば食材は冷蔵庫にでも入れておこうかとアパートのチャイムを押したら不在だった。全くの素人であまり詳しくないのだが、何かポストからドアをなんとかこじ開けたような跡か何か(それはただのへこみかもしれない)、近くを通りかかった大家さんが「不在かね?」と言ったことが気にかかった。「そうみたいですねー」と返しておいた。この時間なら大学かバイトかと思って、LINEで適当なスタンプを送って、とりあえずこっちの家がある吉祥寺に戻ることにした。距離もめちゃくちゃ離れているわけでもないし、連絡があれば行こうと思った。

彼女の最寄り駅へ続く道、最寄り駅に差し掛かる前にLINEで連絡が来た。書いてあった電話番号にかける。そして事実を知る。彼女が数日前に亡くなったことを。頭をめぐらせる。急死するような身体疾患はないはずだ。

すぐに察した。自殺だと。

空気がしっかりとにたまった風船を潰すと割れてしまう。大きな音とともに。そんなこと、知っていたから。


先日、彼女の実家を訪れた。1年前に建てた新築の家。2人の女の子が住んでいたので同じ造りの部屋が2つ。4月に上京していったので1部屋空いた。でも別の理由で、一つは、一生埋まることがない部屋だ。

彼女とは大学入試を数ヶ月後に控えた当時18歳からの付き合いで、彼女は当時高校2年生だった。pixivでイラスト見ました!ってTwitterにリプが飛んできたのがはじめてだった。

色々LINEとかで話していて学校のことや勉強の話題、閉鎖病棟脱走伝説の話になったとき、彼女は言った。混乱したときやパニックになったとき、学校に行く前などのストレスを抱えた状態で頭痛薬を10錠以上飲んでしまう、中学のころからだ、とのことだった。

これには理屈がある。手元に頭痛薬の箱がある人は成分を見てほしい。ロキソニンを除いたほぼ全ての薬に、「アリルイソプロピルアセチル尿素(あるいはジフェンヒドラミン塩酸塩)」の文字がないだろうか。国外ではほぼ使われていない。国内のOTC薬では「ウット」がこれが主成分の薬として作られている。ウットは簡単に言えば不安を取り除く薬。だからこれが少量含まれる頭痛薬をたくさん飲めば、不安が取り除ける。しかし頭痛薬は「熱を下げる」「痛みを取り除く」ために作られているわけで、安全とされていて子どもも使えるアセトアミノフェンも、大人用のイブプロフェンも、どっちも過量に服薬するとどこか体の器官を壊すだけだ。

遠距離みたいな感じになって、毎日LINEで通話していたので、例えばそのときに不安の波が来たときにはこっちから「ちょーっと待ってみよう、10分とりあえず10分。それでもだめだったら3錠だけ。普通頭痛のとき2錠飲むけど1錠でも案外効くよ? とりあえず10分経ったらにしよう」となんとか引き止め。強い不安は、時間の経過で軽くなることもある。たまーに会って、駅から動物園に行ったり。

彼女にはメンタルクリニックを勧めた。最初は色々気にして行き渋っていたが、なんとか近くのクリニックに行くことができた。

そこで処方されたのはBZDだった。benzodiazepine. BZD. 抗不安薬で、頭痛薬よりたくさん飲んでも胃に穴が空いたりしないので安全。ただし依存性があり、だんだん効かなくなってくる。

じゃあどうするか。量を増やすか、もう少し強いBZDに変更するしかない。17歳。抗うつ薬SSRI/SNRIは出せない。抗うつ作用もあるレメロン出せるか。ただ本人の訴えは不安。うーん。その医者がそこまで考えていたかは分からないが、結局このBZDが、2年後の彼女の命を奪うことになった。

4月になり、こっちは大学で まじめに講義を受講 Twitter三昧。なんなら講義中にツイキャスすらした。彼女は高校3年の受験生。5限は空きが多く、彼女は塾兼自習室に通っていたので、誰もいない日はこっそり通話をしていた。

「ちょーっと待ってみよう、10分とりあえず10分。それでもだめだったら3錠だけ。普通頭痛のとき2錠飲むけど1錠でも案外効くよ? とりあえず10分経ったらにしよう」は頻繁に使った。ただそれも時間の経過とともに、頭痛薬がBZDに置き換わるだけだった。この言葉は繰り返す。BZDは依存性があり、長期にわたって連用してはいけない。実は添付文書にも書いてあったりする。

連用により薬物依存を生じることがあるので、漫然とした継続投与による長期使用を避けること。本剤の投与を継続する場合には、治療上の必要性を十分に検討すること。

(BZD系セルシンの添付文書より)

頭痛薬を100錠近く飲んで内科に搬送されたことがあった。Aライン取ろうとして頑張ったけど取れなかったみたいだから、医師は本当は全身観察をしたかったのだと思う。しかし中毒が点滴で抜けてきたので、まあいいや、と。医師がここで紹介すべきは精神科病院だが、医師の判断は「前のクリニックにしっかりとかかるように」。医師には医師なりの都合(あるいは礼儀)があり、他科のことには口出しできない風潮があったりする。結局同じクリニックに戻った。

このくらいの自傷、あるいは自殺未遂をする患者ならクリニックじゃ診きれない。本来は転医すべきだ。地域の医療格差というべきか、田舎に立派な精神科を持つ病院は少ない。相性の合う、ほんとのことを話せる医師に出会える確率は東京でも低いのだから、地方ではなおさらだ。精神科医にはあまり事実を話せていないようだった。ビルの屋上の侵入禁止の場所に立ち入ったこととか。

何度かクリニックの医師と繋がりがある中規模の精神科への入院を繰り返した。こっちは吉祥寺のブックオフで見繕いで本を買っていって病院まで持っていったりしていた。こいつみたいなクソ男に引っかからないように向こうが18歳を越えたころから精神的依存を減らそうと努力したが無理だった。ので結局駅で待ち合わせして本屋とヴィレバン見たり(あれ?矛盾していないか?ヴィレバンって本屋だよな)、若干土地勘のある人間として本の舞台を紹介したりした。

大学見学の案内が一通り終わり、高速バスまでの待ち時間に下北沢を回ったこともあった。やっぱ東京って憧れですよね。大学見学ってだいたい5時で終わりなので、残りの時間下北沢のラリってるピーポくんとか(最近消えました)、新宿の文具店とかに立ち寄ったりした。

校長の職権で、単位が足りなくても卒業させることはできる(ようにうまい具合に調整されたみたいな)のだけど、一応高卒認定試験を受けさせたりしておいた(たまにあるんですよ、全日制で偏差値も並で公立なのに4年生がぞろくらいる高校が)。たまに気分変わる人いるし。

「私のことなんて好きじゃないんでしょ」って試し行為に「うん」って答えて恋人関係はしゅーりょー、するはずわけもなく、お互いそんなことも忘れてケロッと次の日から前の日のことを忘れて過ごしてました。

(いろいろありつつも)晴れて大学に合格。よくある東京の単身者用の広くない部屋に入居して、我らがADHD!ってくらい散らかった部屋で生活をしていた。お互いの家でご飯作ったり。18歳19歳のくせに酒を買ったり。地味にタバコ吸ってたり(こっちは吸わない人だったけど、亡くなってから吸い始めちゃったな)。多忙な大学生活を送っていて、結構愚痴をこぼすこともあった。

「どっちかが死ぬまで、一生の付き合いになるだろうね」と彼女は笑った。だいぶ前の話だ。

そして、だ。GHQが変えるまで新嘗祭と呼ばれた日。大学入学から7カ月。「突然」いなくなった。

自分の部屋で、BZDをたくさん飲んで、それから。


実は彼女を死に追いやった大きな原因と理由を知っている。

ただ、それは墓場まで持っていく。1については沈黙を貫き通すことにする。この記事に推測できるものは記載しませんでした。

  1. 重大なファクト
  2. SSRI/SNRIからデパケン単剤への薬の切り替え
  3. 大学の多忙な生活

自分以外の人の存在価値は、亡くすまで分からないものなのかもしれません。


全ての自殺は、100%防げたはずでした。

両親へ

私が中学1年生のとき、EBウイルスに感染し、とても体がだるい状態のときも、親は甘えだとか行って中学校に行かせました。結局、体が動かなくなりました。当時すでに、鬱状態と夜眠れないことは発生していました。

少し休みを取りたいと思っていたら、「陸上部のみまもりの担当がまわってくるのが負担だから退部してほしい」だとか、不登校親の会に「子どもが学校に行かなくて困っている被害者の親」になってみて参加したりと大変熱心に本人ではなく自分の負担を減らす活動に参加されてました。まるで私たちは悪くないと言うかのように。

となりの学区の中学校への転校を希望したら、無事に無視されました。なにやら後から妹がいたから云々聞きましたが、なんの関係もありません。

一人だけご飯が食べられない、給食費未納の学校に通う人間がどこにいるでしょうか。制服も、もうクローゼットの奥の、本人の知らないところに置かれていました。

暖房が切れた寒い部屋の布団の中で、私は何を考えていたと思いますか。

私は中等教育前期課程を学べずに、いきなり通信制高校一覧の本を渡され、適当なところの体験授業に行ってこいと言われました。それは無理でしょう。

高校の入学には調査書が必須ですが、何を話しかけても「ほーん」とか言わない父親にも常に文句を言う母親にも何も期待していませんでした。


日中は外に出ろ図書館に行けと言われたのですが、仮に自転車で行くとして、標高差と移動時間ってのは車に乗っている人は理解できないのかもしれません。バスなんてなかったですから。

高卒認定試験、6科目合格したら「そんなんで調子に乗るな」と言われました。秋に計7科目合格で、おそらく次の春には全科目とれるだろうとの目算でした。

私は中学校の勉強をさせてもらえなかったので、高校3年生の年齢が受けるはずの試験で合格点を取るには、教科にスポットを当てて集中的にやるしかなかったのです。

見えない消された将来に、なんら希望が持てなくなってきました。氷点下近い暖房の切れた夜の部屋で、何も明かりの見えない窓を覗きながら、これから数年後にどうなっているかの将来を悲観するのは当たり前でしょう。寝れない夜中、放送休止のラジオにテレビ、電源が切られて繋がらないネット、だんだん夜が明けていく。この恐怖がわかりますか。


集中治療室の看護師と医師はやさしかったですが、閉鎖病棟は最悪でした。退院ができないならせめて 転院したいという考えを伝えても、近くの一院の診察を受けさせるだけでした。

あそこで受けた境遇の傷は、今も心に大きく残って、これから一生消えないだろうし、電車の中で突然泣き出したりすることもなくならないでしょう。

これは一例です。親が嫌いだと言ったら統合失調症の妄想になりました。異常な敵意らしいです。あと自殺未遂の理由、高卒認定試験で数科目しか取れなかったからになってましたね。どうせ春には取れるのに。

あの病棟は2年間いることが前提なのは知っていたので、無断で離院しました。

公衆電話から家に電話をかけて、駅に迎えに来た母の言葉は「キチガイになりそう」でした。家に来ることは歓迎されてなかったのですね。つらい境遇を受けさせ続けることがよかったと判断したのでしょう。

なぜか無断離院した病院に通わせ続けられました。ひどい抑うつの中で、諏訪湖の周りを歩かされることもありました。

なんで病院を離れたのかわかるでしょう。医者が話を聞かないって面会で何度も言ったでしょう。

閉鎖病棟を出て、離れた駅から電車に乗るってそんな簡単なことじゃないですよ。精神保健福祉法で規定があって、警察に保護されて強制的に戻されるんですよ。そこまでのリスクを持って、わざわざ東京に行かずに茅野で電車を降りて、公衆電話にお金を入れたんです。

自分の都合の良いように論理を曲げて、「医者とちゃんと話してるから大丈夫」ですか。あそこで発狂してみてください、緘黙してみてください。また地獄の入院生活が始まるじゃないですか。わかっていたでしょう。

何度転院したいと言ったことでしょう。 何度ここはやだと言ったことでしょう。 何度無視されたことでしょう。

全日制の東海大附属高校のパンフレットを持ってきて「高校行ったらどうだ」と脅すので、慌てて通信制高校に進学しました。中学校の同級生は新3年生で私は1年生ですか。


大学は実家から離れて、自分の人生を歩めるように東京を選びました。東京に行くのが目的で、大学に行くのは東京に出る手段でしかなかったのです。

大学1年の夏、三鷹を訪れた母は、大学をやめたいという私に「もう18なんだから自立して大学やめるなら就職して、そうじゃないなら大学には死んでもいいから行って」と言いました。いきなり突き付けられた就職と死んでもいいとの言葉に、愕然としました。

春に名前の件で教務課ともめにもめて、最大用量の抗うつ薬を飲んで、睡眠薬があっても眠れず、毎日をとても憂鬱で、死にたい、消えたいと思っている人間に、その言葉は強かったのです。

私は死ぬことにしました。1限の授業がある週は起きられないので徹夜です。寝不足で階段から転落することも多々ありました。精神的にもはや通える状態でなかったので、2限の授業をサボって大学の最上階の窓を開けて、柵を超え、転落しようとしました。結局やめたのですが。

腹を痛めて産んだはずの親から死んでもいいと言われている人間に、自己肯定感だとかふざけたものはありません。

最初の援助交際は車の中で相手の陰茎を咥えて射精させて2000円だけ貰いました。安値ですが、それでも自分を必要としてくれる人間がいることが嬉しかったのです。

そういえば、同じ学年の男にオナホール代わりに使われていたこともあるのですが、それはまた別。毎回呼び出して、終ったらポイです。

金額を上げて五千円一万円一万五千円と、とにかく色んな人と経験を持ちました。同い年くらいの人、妻と子がいるサラリーマン、建設作業員、何をしてるのかよくわからない人、有名IT企業重役。妻子持ちタクシードライバーは週に1度二万円近く貰える優良案件でした。

もちろん母からの「自営の接客業であるから、相手への敬意と感謝は忘れずに仕事をしてください」の言葉は常に脳裏に浮かんでいました。

週末家にとめて遊んでいた同い年の子が癌で亡くなったことを知っだのは、1年生の終わりでした。

大学も2年になった頃、ニューハーフヘルスで働き始めました。ホルモン注射は保険が効かず一回4000円し、その他の錠剤の薬も合わせると金額が膨れ上がるのです。東京での生活はお金がかかりました。ニューハーフヘルスは援助交際と違い、客を自分から捕まえて、日程を調整する手間がないのも魅力でした。

簡単にニューハーフヘルスの仕事を紹介するなら、まず待機部屋に出勤して、予約が入ったら客と合流、店がビルを改造してプレイ専用ルームとしている場所で、性的サービスを行うもの。「ヘルス」とはいいますが、男性同士は法律の規制がないので、肛門に陰茎を挿入してあげるのが仕事のメインです。

最初は大学終わりに出勤していたのですが、ある日を境に鬱が悪化して、大学に通えなくなりました。ニューハーフヘルスに出勤することはできました。「足し算引き算」の小学校の復習SPI対策授業には体は動かなくても、「行くと半日で数万円がもらえる」場所には無理でも行けたのです。

ニューハーフヘルスの待機部屋には色々な人がいました。みな同年代で、似た境遇におかれていたので会話も弾みます。客のせいで疲れた脚も尻も、なんとかごまかせていました。客が入れば入るほどお店は儲かり、それは所属している私たちのおかげでもあるので、店のスタッフさんもみな優しい人でした。客からは容姿を褒められ、もはやそこにしか自分が存在する意味はないのだと感じたほどです。


大学2年の後期は、手術後の疲れとひどい鬱状態で通えるものではありませんでした。近くに12階建ての団地があったので、そこから飛び降りて死のうと何度も行きました。

学費の無駄だから退学させろとの言葉にも、応じてくれませんでした。6年間で卒業しろと。この鬱状態で、どうやって通学するのでしょうか。からだがだるく重く、一日の殆どをベッドの上で過ごすのに、どうやって朝7時に起きれるのでしょうか。

かつての恋人は19で自ら命を絶ちました。

鬱状態が少し軽くなったときに、運転免許を取得できました。大学は3回欠席すると単位はもらえないので、最初の3週間を過ぎればもはや行く意味のない場所になっていました。

心機一転、大学3年から通えるかと思ったら、そこで精神の「死」が来ていました。何もできない何もしたくない何も食べたくないずっと寝ていたい。

朝起きて夜寝ること、精神論とかでは解決できないレベルで、もはや薬でもこれができないのです。肉体的には生きていますが、精神は完全に亡くなっていきました。むかしの恋人は自殺して、自分だけ生き残って、親からは死んでもいいから大学だけには通えと言われる。結局、大学を辞めなければ本当に死んでしまうガス欠寸前の状況であったので、大学を辞めました。


今ではずいぶんと、手にも脚にも傷が増えました。世の中には誰も自分を必要としてくれる人間はいないのでしょう。

精神障害者保健福祉手帳の申請を出したので、これで無事に精神障害者の子を持つ大変な親になれますね。

もしかしたら、数年の間に、その大変もなくなるかも知れませんが。

離婚した

離婚した。

入籍から3週間の別れ。わたしは別に「そんなの気にしないよ」とは電話越しに言ったけれど、パナソニック本社勤務じゃなくてリクルートの派遣会社からパナソニックへの常駐派遣なのをごまかしてたのは気に食わなかったっさ。

昼間から酒飲んで血中濃度が下がる瞬間に相手のアスペが発動するのがキツイ。

「君早く死んだほうが良いよ」

何度言われたことだろう。俺のこと好き?と言われても、早く死んだほうが良いよと言ってくる人間についていこうとするニンゲンがいるわけないだろう。

フロイトはこう言うだろう。「たとえ酔った席であっても、人間がこれっぽっちも思っていないことを言い出すはずがない」って。

相手の署名捺印、保証人2人は捏造させてもらった。なんせ相手が「離婚の手続きは適当にやっといてくれ」と言うもんだから。適当にやったさ。罪に問われるかもな。

皆川先生より麦のほうがクズだよ 〜クズの本懐

※この文章は横槍メンゴ『クズの本』(スクエアエニックス)を読破し、3周くらいしたことを前提に書いています※

この作品において一番の悪人として描かれる皆川茜。大して好きじゃない男を喰う。冴えない、パッとしない、童貞クサい、鐘井鳴海も喰った。しかし彼女は誰これ構わずヤるわけではない。芋っぽい童貞クンのはじめてを奪うのが好きな童貞キラーではない。「評価」の高い人物に求められることが、なにより気持ちいいのだ。

かつては同い年の若いやつとも付き合った。大学生時代とは教授とヤった。今もセフレがいる。行動のパターンは、鐘井鳴海と飲みに行ったときによく表れている。ほんと健全に飲むだけ、ホテルも行かない、退屈退屈退屈退屈。えー?このまま帰るのー?つまんねー。飲みすぎてよろけて倒れた瞬間、鐘井鳴海が身体を支えてくれる。

「花ちゃん、大丈夫?」

こいつ安良岡花火のこと気にしてんじゃん。とっさに名前出ちゃうほど好きなんじゃん。つまりさ?こいつとセックスすれば、その安良岡花火って高校生より鐘井鳴海の中での私の立場は上になる。だって花ちゃんは、鐘井鳴海とセックスしたくてしょうがないのに、できてないんだから。そんでホテル。

中学時代、芋っぽい友人が好きだと言っていた男に告白して付き合った。友人は泣いていた。「お似合いだよ」って。でも皆川茜はその男が欲しかったわけじゃない。芋っぽい友人が好いている男と付き合っている自分が欲しかった。それは、芋っぽい友人より私のほうが価値のある存在であることの証拠だから。

皆川茜は、自分が都合のいい穴として使われていることは分かっている。むしろそれでいい。それだけ自分に魅力があるということの証左なのだから。攻略難易度の高い男を落とせること(それは自分に魅力的でなくてもいい)が、自分の価値を表す唯一の手段だから。高スペ男とヤれることが自分の価値。

鐘井鳴海は安良岡花火から好意を寄せられている。まあ、鐘井鳴海はその気持ちに応えることはないだろう。だって、高校の先生とその生徒だから。鐘井鳴海にとって安良岡花火はあくまでかわいい妹(あるいは子)なので、性欲の対象にはならない。注がれるのは親から子への無条件の愛であって、その関係性は対等じゃない。関係性が対等になる「性」はこれから先もずっと注がれない。だから、安良岡花火はずっと片思いだ。その恋は一生報われない。

安良岡花火は純情。「好きじゃない人から向けられる好意ほど、気持ちの悪いものってないでしょう?」。皆川茜と真逆、というよりは親から子へ注がれる愛と、男女間の「好き」を勘違いしているんだろう。世の中の「好き」は無条件の愛しかないと思っている。親子みたいな好きを他人から押し付けられたと思ってるから、それを気持ち悪いと断言した。

安良岡花火はだんだんと粟屋麦のことを意識していく。粟屋麦から注がれているのは性欲なんだけど、それをお兄ちゃんが注いでくれる愛だと勘違いしている。粟屋麦は最初から安良岡花火なんて意識してない。飽きたら何ヶ月も会話しないし。粟屋麦はいくらでも遊べる。童貞のころ先輩にからかわれながら思春期のおもちゃにされてたときから、愛だとか恋だとか、大体の感覚を、身をもって知っている。それが無条件の愛じゃないくらいは。相手の都合よく使われるだけだと。

この作品の一番の悪人は粟屋麦だと思う。わりとイケメン。中学1の美女とセックスしてたんだから女にはそんなに苦労しない。貞操だってかたくないし、昔付き合ってた先輩呼び出して道玄坂のホテル行っちゃう。安良岡花火の気持ちも知ってて、でも喰えそうだから喰おうとしちゃう。本当の処女には痛がって挿入できなかったけどね。

粟屋麦は、自分なら皆川茜の心の隙間を埋められると思っている。高校生かわいい。絶対無理。

安良岡花火は皆川茜のセフレと会ったりするけど、相手がヤリモクなのが――何より自分を一番にしてくれないことが――嫌で嫌で処女喪失ならず。純情。

最終巻は駆け足で皆川茜と鐘井鳴海が結婚して終わる。皆川茜に対して鐘井鳴海が無条件の愛を見せた。何をしても見捨てない、心のどこかで求めていた母みたいな存在が現れた。

でも皆川茜は結婚しても変わんないと思うーーー!クソ女のままだよ一生!!

processing

進行した出来事は僕に後戻りが許可されないものを示すに違いはなかった。

視界が変わる。見えるものが変わる。
見えたものが見えなくなる。

ドンキで買った染め粉を2箱使って、赤かった髪色を量産型色に変えた。

知らない間に歳を取っていて、この年齢まで生き抜いたことに驚く。
××歳になったからって誰かに感謝するわけではなく、こんなに生きて自分アホやなあと呆れるだけ。

3カ月前の美容整形の傷は目立たないが、それより前からの手首の自傷跡は白や赤のケロイドと化していた。

前からのなぜ苦しい中を生きなければいけないのか、死ぬほうが合理的だろうとのわだかまりは、今も解消できずにいる。

「この電車は電車同士の間隔が詰まっているため当駅で運転を見合わせます。夜遅くの運転見合わせ大変申し訳ございません。3番線からの電車も併せてご利用ください」

ぼくの人生は続いている。55分遅れの中央線の中で。

早く楽になりたい

少なくともここ8年間は一日も死にたいと思わずに過ごせたことはないし、手首なんて切りまくりだし、16歳のときには自殺未遂で集中治療室運ばれちゃったし、閉鎖病棟にも入ったし、20の今でも手首だって切っちゃえるし、たぶん楽しいことはあるんだけど結局一日死にたいと思わずに過ごせる日はない。

承認に飢えているのだ。愛か? 愛とはコンドーム越しに見ず知らずの相手の射精の瞬間を感じることか?(そうだろうな。)もうそれでいい。それでいいから私の全てを一切否定せずに認めてくれ。私の今後の生活を一生面倒見てくれ。金も出してくれ。頼む。

死にたい! 死にたい! 死にたい! 死ぬの怖いから殺してくれ、未遂に終わるのが一番嫌なんだ………………。狂った10代をあんなものだったと認めるわけにはいかない。見栄えが悪いと上から踏みつぶされた私の人生をしょうがないの言葉で片づけるわけにはいかないんだ! ――ならどうしたらいいんだ!

手首を切る。速やかに、カミソリの柄を上から押せ、引け。血が出る。その瞬間に君はまた親や精神科医から叱責され、もう一度閉鎖病棟に入院するかと言われるのが頭に浮かぶのだ!

死にたい、死にたい、そわそわ、そわそわ。早く楽になりたい。