両親へ

私が中学1年生のとき、EBウイルスに感染し、とても体がだるい状態のときも、親は甘えだとか行って中学校に行かせました。結局、体が動かなくなりました。当時すでに、鬱状態と夜眠れないことは発生していました。

少し休みを取りたいと思っていたら、「陸上部のみまもりの担当がまわってくるのが負担だから退部してほしい」だとか、不登校親の会に「子どもが学校に行かなくて困っている被害者の親」になってみて参加したりと大変熱心に本人ではなく自分の負担を減らす活動に参加されてました。まるで私たちは悪くないと言うかのように。

となりの学区の中学校への転校を希望したら、無事に無視されました。なにやら後から妹がいたから云々聞きましたが、なんの関係もありません。

一人だけご飯が食べられない、給食費未納の学校に通う人間がどこにいるでしょうか。制服も、もうクローゼットの奥の、本人の知らないところに置かれていました。

暖房が切れた寒い部屋の布団の中で、私は何を考えていたと思いますか。

私は中等教育前期課程を学べずに、いきなり通信制高校一覧の本を渡され、適当なところの体験授業に行ってこいと言われました。それは無理でしょう。

高校の入学には調査書が必須ですが、何を話しかけても「ほーん」とか言わない父親にも常に文句を言う母親にも何も期待していませんでした。


日中は外に出ろ図書館に行けと言われたのですが、仮に自転車で行くとして、標高差と移動時間ってのは車に乗っている人は理解できないのかもしれません。バスなんてなかったですから。

高卒認定試験、6科目合格したら「そんなんで調子に乗るな」と言われました。秋に計7科目合格で、おそらく次の春には全科目とれるだろうとの目算でした。

私は中学校の勉強をさせてもらえなかったので、高校3年生の年齢が受けるはずの試験で合格点を取るには、教科にスポットを当てて集中的にやるしかなかったのです。

見えない消された将来に、なんら希望が持てなくなってきました。氷点下近い暖房の切れた夜の部屋で、何も明かりの見えない窓を覗きながら、これから数年後にどうなっているかの将来を悲観するのは当たり前でしょう。寝れない夜中、放送休止のラジオにテレビ、電源が切られて繋がらないネット、だんだん夜が明けていく。この恐怖がわかりますか。


集中治療室の看護師と医師はやさしかったですが、閉鎖病棟は最悪でした。退院ができないならせめて 転院したいという考えを伝えても、近くの一院の診察を受けさせるだけでした。

あそこで受けた境遇の傷は、今も心に大きく残って、これから一生消えないだろうし、電車の中で突然泣き出したりすることもなくならないでしょう。

これは一例です。親が嫌いだと言ったら統合失調症の妄想になりました。異常な敵意らしいです。あと自殺未遂の理由、高卒認定試験で数科目しか取れなかったからになってましたね。どうせ春には取れるのに。

あの病棟は2年間いることが前提なのは知っていたので、無断で離院しました。

公衆電話から家に電話をかけて、駅に迎えに来た母の言葉は「キチガイになりそう」でした。家に来ることは歓迎されてなかったのですね。つらい境遇を受けさせ続けることがよかったと判断したのでしょう。

なぜか無断離院した病院に通わせ続けられました。ひどい抑うつの中で、諏訪湖の周りを歩かされることもありました。

なんで病院を離れたのかわかるでしょう。医者が話を聞かないって面会で何度も言ったでしょう。

閉鎖病棟を出て、離れた駅から電車に乗るってそんな簡単なことじゃないですよ。精神保健福祉法で規定があって、警察に保護されて強制的に戻されるんですよ。そこまでのリスクを持って、わざわざ東京に行かずに茅野で電車を降りて、公衆電話にお金を入れたんです。

自分の都合の良いように論理を曲げて、「医者とちゃんと話してるから大丈夫」ですか。あそこで発狂してみてください、緘黙してみてください。また地獄の入院生活が始まるじゃないですか。わかっていたでしょう。

何度転院したいと言ったことでしょう。 何度ここはやだと言ったことでしょう。 何度無視されたことでしょう。

全日制の東海大附属高校のパンフレットを持ってきて「高校行ったらどうだ」と脅すので、慌てて通信制高校に進学しました。中学校の同級生は新3年生で私は1年生ですか。


大学は実家から離れて、自分の人生を歩めるように東京を選びました。東京に行くのが目的で、大学に行くのは東京に出る手段でしかなかったのです。

大学1年の夏、三鷹を訪れた母は、大学をやめたいという私に「もう18なんだから自立して大学やめるなら就職して、そうじゃないなら大学には死んでもいいから行って」と言いました。いきなり突き付けられた就職と死んでもいいとの言葉に、愕然としました。

春に名前の件で教務課ともめにもめて、最大用量の抗うつ薬を飲んで、睡眠薬があっても眠れず、毎日をとても憂鬱で、死にたい、消えたいと思っている人間に、その言葉は強かったのです。

私は死ぬことにしました。1限の授業がある週は起きられないので徹夜です。寝不足で階段から転落することも多々ありました。精神的にもはや通える状態でなかったので、2限の授業をサボって大学の最上階の窓を開けて、柵を超え、転落しようとしました。結局やめたのですが。

腹を痛めて産んだはずの親から死んでもいいと言われている人間に、自己肯定感だとかふざけたものはありません。

最初の援助交際は車の中で相手の陰茎を咥えて射精させて2000円だけ貰いました。安値ですが、それでも自分を必要としてくれる人間がいることが嬉しかったのです。

そういえば、同じ学年の男にオナホール代わりに使われていたこともあるのですが、それはまた別。毎回呼び出して、終ったらポイです。

金額を上げて五千円一万円一万五千円と、とにかく色んな人と経験を持ちました。同い年くらいの人、妻と子がいるサラリーマン、建設作業員、何をしてるのかよくわからない人、有名IT企業重役。妻子持ちタクシードライバーは週に1度二万円近く貰える優良案件でした。

もちろん母からの「自営の接客業であるから、相手への敬意と感謝は忘れずに仕事をしてください」の言葉は常に脳裏に浮かんでいました。

週末家にとめて遊んでいた同い年の子が癌で亡くなったことを知っだのは、1年生の終わりでした。

大学も2年になった頃、ニューハーフヘルスで働き始めました。ホルモン注射は保険が効かず一回4000円し、その他の錠剤の薬も合わせると金額が膨れ上がるのです。東京での生活はお金がかかりました。ニューハーフヘルスは援助交際と違い、客を自分から捕まえて、日程を調整する手間がないのも魅力でした。

簡単にニューハーフヘルスの仕事を紹介するなら、まず待機部屋に出勤して、予約が入ったら客と合流、店がビルを改造してプレイ専用ルームとしている場所で、性的サービスを行うもの。「ヘルス」とはいいますが、男性同士は法律の規制がないので、肛門に陰茎を挿入してあげるのが仕事のメインです。

最初は大学終わりに出勤していたのですが、ある日を境に鬱が悪化して、大学に通えなくなりました。ニューハーフヘルスに出勤することはできました。「足し算引き算」の小学校の復習SPI対策授業には体は動かなくても、「行くと半日で数万円がもらえる」場所には無理でも行けたのです。

ニューハーフヘルスの待機部屋には色々な人がいました。みな同年代で、似た境遇におかれていたので会話も弾みます。客のせいで疲れた脚も尻も、なんとかごまかせていました。客が入れば入るほどお店は儲かり、それは所属している私たちのおかげでもあるので、店のスタッフさんもみな優しい人でした。客からは容姿を褒められ、もはやそこにしか自分が存在する意味はないのだと感じたほどです。


大学2年の後期は、手術後の疲れとひどい鬱状態で通えるものではありませんでした。近くに12階建ての団地があったので、そこから飛び降りて死のうと何度も行きました。

学費の無駄だから退学させろとの言葉にも、応じてくれませんでした。6年間で卒業しろと。この鬱状態で、どうやって通学するのでしょうか。からだがだるく重く、一日の殆どをベッドの上で過ごすのに、どうやって朝7時に起きれるのでしょうか。

かつての恋人は19で自ら命を絶ちました。

鬱状態が少し軽くなったときに、運転免許を取得できました。大学は3回欠席すると単位はもらえないので、最初の3週間を過ぎればもはや行く意味のない場所になっていました。

心機一転、大学3年から通えるかと思ったら、そこで精神の「死」が来ていました。何もできない何もしたくない何も食べたくないずっと寝ていたい。

朝起きて夜寝ること、精神論とかでは解決できないレベルで、もはや薬でもこれができないのです。肉体的には生きていますが、精神は完全に亡くなっていきました。むかしの恋人は自殺して、自分だけ生き残って、親からは死んでもいいから大学だけには通えと言われる。結局、大学を辞めなければ本当に死んでしまうガス欠寸前の状況であったので、大学を辞めました。


今ではずいぶんと、手にも脚にも傷が増えました。世の中には誰も自分を必要としてくれる人間はいないのでしょう。

精神障害者保健福祉手帳の申請を出したので、これで無事に精神障害者の子を持つ大変な親になれますね。

もしかしたら、数年の間に、その大変もなくなるかも知れませんが。