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Univ. of

あと一歩だった。講義棟6階の窓を開け外へ。人ひとりくらいの幅開いた窓に手をやって、へこんだ窓枠の外で震えながら立つ。

この高さから飛び降りれば骨折くらいはするだろう。

でも、飛べない。 怖いのだ。死ねないのが。救命されるその後が。

死ねないのが怖い。「死ぬのが怖い」「死ぬときに苦しいのが怖い」というのは聞くが、私は死ねないのが怖い。死ぬのは怖くない。苦しいのも怖くない。

未遂に終わり、自我がありながら生きるのがただつらい。

なぜこれだけ生きるのが苦しいのだろう。周りの人はどうなのだろう。

電車に轢かれたら何割かは死ぬ。30階から飛び降りれば何割かは死ぬ。パーセンテージは低くはない。けれど私は怖い。数字が、エヴィデンスが、そういったものでは理解はするけど感情的に納得できない。身をもって体感したからだ。

残りの何割かは生きてるんでしょ?

自殺未遂者に「生きていてよかった」と言うのは、国立大一本の受験者に「落ちてよかった」と言うのに等しい。これでこれからも地元にいれるね、地元で就職しよう。そう言っているのと同じ。

私さえなくなればいい。単純に。記憶障害でも脳死でも。私が私で存在し続けることは絶対に嫌だ。許せない。植物状態でも喜怒哀楽はあるらしいじゃないか。もちろん精神科の隔離室にいる人間にも当然人格はある。私たちが共通させている言葉や仕草は違えど、私たちと同じ脳を持っている。

認知症患者は本当になにも考えずに自分の糞便をいじり介護スタッフを困らせているだけなのか。言語や記憶を司る機能に問題が生じたときの、なんらかの意思表示なのではないか。そこにキャラはなくても、「私」は存在するのではないか。

もう二度と死ねなくなる状態にはなりたくない。二度と未遂に終わらせない。自殺は望みだ。第一志望は譲れない。私を消すことが望みだ。

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