さいごの自殺未遂

私は同じ児童思春期閉鎖病棟にいた中学3年のFtMと「依存」していた。

自殺未遂してやってきた16歳MtF。これが私だ。

教員に自殺したいのがばれて1週遅れでやってきた中3FtM。

似た境遇だったのでずっと話してた。閉鎖病棟には決まりがあり、男女で5分以上話してはいけないらしいが、それでも話してた。することないし。

互いのツイッターを交換した。病院内は携帯不可ネット禁止なので、自宅に帰ったときや小型ゲーム機を使って隣の家のFREE-WiFiを駆使してメッセージを送っていた。

その中学生がTwitterで言うことは、閉鎖病棟の診察時間で言うこととだいぶ違う。

診察室

医「なにかありますか?」
患「いえ」
医「最近は朝早く起きてますか」
患「学校行くくらいの時間なら」
医「最近お薬は飲んでますか」
患「はい」
医「じゃ、いいですよー」

Twitter

「親が怖い」「また殴られる」「女であるこの体が嫌だ」……

この病院では医師や看護師にいかに回復したかを演じ続けることで、ひどい空間から早く出ることができるのかのゲームなのだ。このゲームは精神疾患治療が目的ではない。医者が入院の必要性がない状態と判断した書類に、ハンコを押させるためのゲームだ。ここの病院の院長は、人を傷つけたり自分を傷つける人たちは一生ここで預かりますよ、ってのがポリシーなのだから。

入院する原因のことをもうしないというなら出してくれる。私なら自殺未遂。そこで親がどうこう、とか、性別が、と言っていると退院できなくなってしまう。患者に対し画一的に処方された向精神薬が効いたふりをすればいい。「前は不安で不安でしょうがなかったけど、ロナセンを飲むと物事にも集中できるし死にたくなる気持ちもでてこない」

演技力パーフェクトな彼は6月に退院していった。
私はたまに腕を切ったりと衝動が抑えられず退院できそうにないため、7月に閉鎖病棟無断離院(→脱走)で退院。

退院後は憂鬱な予備校生になった。志願校なし。中卒です。

彼にすきすき愛してるとDMを毎日送っていたらアカウントをブロックされてしまったのだが、少し口にしていた「冬山での自殺計画」が心にひっかかる。

彼を失った私の人生などあるのだろうか。ないだろう。
彼が死ぬなら私も死ぬ。できれば一緒に死にたい。

10月、彼がツイキャスで生放送をしていたのを見つけた。毎日この時間に放送してるから、今日も放送するだろう。放送開始。顔を隠すお面と一緒に現れたのは彼で、自殺場所をどうしようかと話している。コメントで「一緒に死んじゃだめですか」と送る。少し驚いた様子ながら「細かくはDMで」との返事。Twitterでのブロックは解除されていた。

自殺計画は本気だった。
冬山で凍死。彼には彼なりに抱えた苦労があっての判断。それを「わかるよわかるー、私もさー」なんて一般論化する愚行はしない。
医療や行政に連絡しても行先は自由のない松本市精神科病院だ。あそこの問題は身をもって体感している。行かせない。
何度か下見をした。警察がこなさそうなエプソン私有林。高いフェンス付き。ここだろう。雪が降った日を決行日にした。

当日

睡眠薬は飲まず徹夜。空腹時のほうが死にやすいのでなにも口にしなかった。

この自殺未遂に失敗は許されない。あの病院に連れ戻されてしまうのだから。

始発で彼とは合流した。
死ぬ前に松本へ行って本屋で本を眺めていると閉鎖病棟の友人からDM。「これから集団自殺するの?」。さすがです。この時点で私の家からは「××が薬をたくさん持ちだして自宅からいなくなった」との情報が行き、仲が良かった彼も一緒にいるだろうと推測しているとのこと。ここで携帯の電源は切った。

自殺予定地に戻る電車の窓から、家の最寄り駅でフェンス越しに駅を見る両親と目が合った。手を振ってる。指をさしてる。おまつりかな。

自殺予定地に戻ると、空は暗くなっていた。

最後に聞きたい曲があるというので彼にイヤホンと機内モードスマホを貸す。

氷点下二けたが当たり前の地域の冬はやさしくない。半袖ジャージの私たちを蝕んでいく。

ぼくの鞄に入っている度数の高い酒と大量の睡眠導入剤。これで彼は凍死するかもしれない。

でも、それでいいのか。

私は彼の自殺支援だけでなく、生きることを共に歩むこともできよう。


「お酒、のみたくないなあ」
「お酒まずいと思うよ、うん」
「お酒、のまないと……」
「あのさ、君のこころの負担を、ぼくが半分くらいかわりに持ってもいいかな。半分は私が支えるから、あとほんの少しでもいいから、生きられるところまで生きてみない?」

そうして、この自殺計画は未遂に終わった。

冬山から下りて、彼の家まで行き、待っていたのは警察と私の両親とふりかけごはん。
閉鎖病棟であいさつくらいはしたけれど、ちゃんとした場所でお会いするのははじめてな彼の母親。
捜査規模は結構大きくなっていたらしい。自殺目的の家出ではなく「親への連絡不足(で家出になった)」との処理にして帰っていった。
私の両親は松本にいたの?などと質問してくる。どうやら機内モードを切ってTwitterを見てたとき、警察によって位置情報を特定されていたようで。

これが、さいごの自殺未遂。

広告を非表示にする

千代田区コミュニティサイクル「ちよくる」に乗る

事前にやっておいた方がいいこと

「ちよくる」概要

  • 千代田区コミュニティサイクル
  • 特別区と同様NTTドコモのシステム
  • 初めの30分150円 以後30分ごとに100円

乗ってみた

f:id:l997:20170619213225j:plain 秋葉原から。

f:id:l997:20170619213319j:plain スタートボタンを押してICカードをかざすと解錠されます。

乗る前にバッテリ残量と前照灯が点灯するか確認したほうがいいかも。

f:id:l997:20170619213533j:plain

f:id:l997:20170619213612j:plain

適当にぐるぐる。今回は東京駅近くで乗り捨てることに決定。

f:id:l997:20170619213708p:plain

読み込んだ地図でポートを確認。

f:id:l997:20170619213743j:plain

へんなのいた。

f:id:l997:20170619213822j:plain

頭から入れて鍵をかける→リターンボタンを押す、でおしまいです。

f:id:l997:20170619214030j:plain

f:id:l997:20170619214122j:plain

返却するとメールが来ます。

チャリで来た

感想

  • 感覚的に高い

一言

  • はじめて皇居見た
広告を非表示にする

私は忘れてしまった

忘れてしまった。そこに何もない。 温かい、冷たい、暑い、寒い、嬉しい、哀しい、楽しい、つまらない…………………………。

16歳のときに自殺未遂をした。つらいから自殺未遂をしたと思うのだけど、どうやらそれは思い違いで、恵まれ幸せな環境で自身が不幸だと思い込む妄想だった。そのとき忘れてしまった。気持ち。感情。甘い。苦い。好き。嫌い。やりたい。やりたくない。

性風俗店で働くことを打ち明けた18歳の私に、父はHBVワクチンを打つように、母は客への敬意と感謝の気持ちを忘れないように教えてくれた。

たぶんこれが愛。忘れてしまったけれど、これが愛というものだろう。客にコンドームを付けることが愛。客のペニスがビクビクと脈打ち、繰り返しペニスを私のからだに出し入れするスピードが遅くなる。客にシャワーを浴びせる。部屋の掃除をする。22時にお店の人にお金をもらって、家に帰って布団に入る。9時からは学校。これがたぶん充実した生活。満たされる。嬉しい。幸せ。そうであるはずだ。

私は忘れてしまった。でもわかる。推理すれば。私がとても幸せだということが。とっくに白くなった手首のためらい傷をなぞる。死にたい。嘘。そんなのありえない、だって過去も将来も私は幸せだから。

広告を非表示にする

閉鎖病棟でメンヘラ中学生と仲良くなって退院してから一緒に自殺未遂した話

この記事は2014年12月20日に、当時17歳だった筆者が執筆した文章を、一部名前を改変して掲載するものである。

第2新東京市の郊外に位置するとある私立精神科病院(正確には単科ではないのだけど、精神科がメインの病院である)。そこには県内に数カ所しかない児童思春期精神科の閉鎖病棟がある。20歳未満の男女しか入院できない病棟。県内から若くて重篤なメンヘラが集まってくる。僕はここに、自殺未遂で今年3月に入院した。当時16歳。ニート。男。僕が入院してから数週間後に入院してきた人がいた。いつもジャージを着ている当時14歳中学2年生。

省くが、閉鎖病棟でこの14歳と仲良くなった。Aとは病棟でずっと一緒にいて(看護師に怒られた。別の病棟するぞと脅された)、ずっと他愛のない話をしていた(診察の際医師に「二人の距離が近すぎる」とカルテに書かれた)。県から派遣された教諭が勉強を教える、学習会なる小中学生が参加する時間はAと別々になってしまってつらかった。Aが外泊に行くと寂しかった。寂しい寂しいと言ったら、Aが外泊時、Twitterで連絡を取ってくれるようになった(僕は閉鎖病棟に持ち込みが禁止されているスマートフォンをこっそり持ちこんでいた)。

7月上旬、ただ単調な日々が繰り返される閉鎖病棟での生活が耐えられなくなり、僕は病院から脱走した。任意入院だから任意の申し出で退院できるはずなのだが、医師も看護師も退院の手続きを取ってくれなかったので脱走した。病院から駅まで走って、電車に乗って家まで帰った。病院には戻りたくないと親を通して病院に伝えたところ、退院の手続きが取られた。Aもそれから4週間後に退院した。

8月上旬。退院して初めてAと会った。駅の待合室にAを見つけたとき、僕はとても嬉しかった。しかし8月下旬に、Aから「依存も尽きたでしょ?」「決心できたら冬に死んでもいい?」とDMが来て、僕のTwitterアカウントはAにブロックされ(最後に僕は「それは君が決めることだ」とメッセージを送った)、唯一の連絡手段が途絶えた。それでもAも僕もお互いのツイートはチェックしていたようなのだが、Aは10月にツイートを非公開にしてしまう。僕は11月上旬にAのアカウントIDでググってAがツイキャスをやっていることを知る。11月下旬に、Aがキャスで自殺をほのめかしたから、「死ぬなら一緒に死のう」とメッセージを送った。Twitterのブロックは解除されていた。次の日に会って、一緒に自殺する場所を探した。凍死狙いなので山を見た。12月上旬にも会った。親が夜勤で家にいない日を狙って死ぬという。一緒に場所を探した。そのあと、Aは僕と別れたあとに、一人で山に入ってビールと持っていた全ての睡眠導入剤を飲んだらしいのだが、死ねずに帰ってきた。

12月13日。Aの親が夜勤で不在の日。Aは薬を持っていない。僕が薬を提供しなければAは死ねない。この事実は僕に重くのしかかった。僕はその日徹夜をして、ハルシオンロヒプノールロラメットをそれぞれ30錠、それに酒を持って早朝に家を出た。携帯電話は機内モードにして、通信しないようにしていた。Aと駅で待ち合わせ、最期だからと電車に乗って繁華街に行った。飲食店の前を通るたび、Aは「数日前に来たかった」と言った。少しでも死にやすいように、当日は絶食することを決めていた。万が一捜索されていたらと思い、繁華街で携帯の機内モードを数分だけ解除した。捜査を撹乱させるためだ。午後4時。電車で戻って、二人で立入禁止の山に入った。ワンセグのデータ放送のニュースで僕達が行方不明になっていることが報じられていないと確認した。風は強く、雪が降っていた。物音がするたびに警察ではないかと怯えた。午後6時にもなるとあたりは暗くなった。身を寄せ合って寒さをしのいだ。防災無線は明日は衆議院選挙の投票日です。棄権せず投票に行きましょう。と伝えるだけで、行方不明者の情報は流さなかった。――立ちっぱなしで2時間は経っただろうか。体が震える。足の感覚がなくなってくる。僕は死にたいんじゃなくて現状から脱却したいんだ、と思ってみたりした。Aは酒を飲みたくないようで、か細い声で「お酒、飲まなきゃいけないのかなあ」とつぶやいた。

「君にこれ以上の苦痛を味わわせたくないのだけど、僕が君のつらさを少しでも軽減できるのならば、生きるのを少し延長してもいいんじゃないかな」

我ながら痛いセリフを吐いたものだ、と思う。だけど、この言葉で自殺は未遂に終わった。

スマートフォンの電源を入れて、山を出て、電車でAの家に向かった。Aの家には夜勤のはずのAの親がいた。僕には捜索願が出されていて、じきに2人の警察官がやってきた。警察が病院に照会していたらしく、僕とAが一緒にいる可能性が高いと踏んでいたらしい。僕がヘコヘコ頭を下げたら捜索は解除になって、警察官は帰っていった。僕は駆けつけた親に、家へと連れ戻された。

Aはその日、深く腕を切った。それはもうパックリと。生きるとは……生きるとは……。

広告を非表示にする

入院記録 第一部

この記事は2014年7月10日に、当時16歳だった筆者が執筆した文章を改変することなくそのまま掲載するものである。

2月26日 午後6時

死にたくなったので、夕食代わりに半数致死量の2倍のカフェインを飲むことにした。手元に半数致死量のアスピリンがあったので迷ったが2倍量のカフェインにした。半数致死量じゃ死ねないかもしれないけど、半数致死量の2倍飲めば必ず死ねるでしょ?

カフェイン20gとメラトニン60mg(寝て死にたかった)を飲み干したぼくは耳鳴りと頭痛と吐き気と幻臭を覚えながら床についた。錠剤100錠とカプセル20個は(特に前者が)飲むのに苦労した。250mLのタンブラー4本分の水で流し込んだ。これで寝て死ねる!そう思っていた。

カフェイン 100錠【海外直送品】 [並行輸入品]

カフェイン 100錠【海外直送品】 [並行輸入品]

10分後

オエービチャビチャ。布団ゲロまみれ。耳鳴りと頭痛と吐き気と幻臭とパニックだけ。寝れない。普段ちっとも思わなかった親不孝な子供でごめんなさいとか思っちゃう。吐きながらお父さんお母さんごめんなさいとか考えちゃう。

Nexus7でYouTube灼眼のシャナOPとかを聴いていたが操作がつらくなってきたので、RadikoFM長野を聴くことにした。

1時間後

相変わらずの吐き気、吐き気、吐き気。ラジオなんて聴いてられない気持ち悪さ。でも聴いとどうにかなっちゃいそう。聴いててもどうにかなりそう。布団全部ゲロ。幸い朝にオールブランを食べただけで後は何も食べていないので、吐くのは全て水。ざらざらした水。

これ死ねないかも、と直感的に思った。

2時間後

トイレに行った。その帰りに倒れ、親にバレる。

「死にたくてカフェイン飲んだら全部吐いた」

正直に説明した。壊れた血圧計でぼくの血圧を測ろうとしていたけど当然失敗した。車に乗せられて近くの救急外来へ。父親に移動中車内で「XX(ぼくの名前)も死にたくてカフェイン飲んだんか」とか言われる。

そして病院へ。

「これ全部飲んじゃったの?」

処置室で医師の言葉が痛い。医師の手にはぼくが飲んだカフェインの錠剤が入っていたボトルが。どうやら親が持ってきたらしい。医師の名札には緩和ケアとか書いてあった気がする。母親にその腕の傷は今日やったのかと聞かれる。これは前……と言ったら「死ななくていいのに」と言われた。

ストレッチャーに乗せられて

「今日は何月何日か分かりますか」

「自分の名前分かりますか」

と聞かれた。2月の何日だっけ……と言ったら看護師に意識確認OKです!と叫ばれた。いいのかそれで。声が作れず、自声ってこんなんなんだなーと再認識した。

点滴しますねーおしっこの管入れますねー鼻から胃に管入れますねーとフルコース。胃洗浄して活性炭を飲まされた。吐いた。

2月27日

日付が変わる頃にICUに移動。なんで処置室が1階でICUが2階なんでしょう。ストレッチャーのままエレベーターに乗った。

点滴2本とAラインが腕に入っている。心電図の電極も胸に貼り付けられている。当然眠れずに、枕元のトレーに嘔吐しながらベッドサイドモニターをずっと眺めていた。吐くたびに看護師が「つらいね、ごめんね」と声をかけてくれる。一時間おきくらいに瞳孔の開きを見にペンライトを持った看護師が来た。たまにベッドサイドモニターがピコンピコンと鳴る。そのたびに看護師が来る。

朝9時に透析をすると告げられる。ネットで持ち上げられて体重を測って、エコーで動脈のありかを探られて、麻酔を打たれて、カテーテルを刺された。ぼくにカテーテルを刺したのはイケメンな研修医の先生だった。

その先生が僕の腕を見て一言。「だいぶやっちゃてるけど病院にかかってる?」

かかってませんと答えた。

透析でカフェインが抜けて眠くなったので、ぼくは睡眠をとった。透析は1回で終わった。

2月28日

尿カテーテルが外れた。Aラインと点滴1本も外れた。でも尿の量がみたいのでトイレでは尿瓶にためてくれという。両腕だった点滴が片腕になった。この日の昼から食事が出た。おかゆだった。腕を曲げるたびに輸液ポンプがピーピー叫んだ。看護師にシャンプーをしてもらった。してもらう前に髪を触ってみたら、吐瀉物でゴワゴワだった。26日に布団で付いたらしい。

午後に集中治療室からハイケアユニットに移動した。と言ってもベッドが移っただけだけど。

たまに心電図の電極が外れて、ベットサイドモニターが鳴った。看護師は来ないので自分で貼り直した。左手人差し指の指先に脈を測る脈拍センサーを付けられた。

ふつうのおかゆじゃない夕食を食べて(味が薄かった)、ひさしぶりに歯を磨いた(水を持ってきてくれて、磨き終わったらトレイにペッした)。消灯前に「眠くなる薬いる?」と看護師が聞くので、欲しいと言ったらアモバンをくれた。

3月1日

朝ごはんを食べて、看護師にもらった濡れタオルで体を拭いた。

10時くらいにイケメンな研修医の先生が来て、「XXくんの心と体の調子を見てもらいに、松本の△△先生のところに行こうか」という。とりあえずうなずいた。このときはこの先生の車で行って帰ってくるのかなーと思ってた。

そしたら点滴そのままで救急隊員にストレッチャーに乗せられて集中治療室・ハイケアユニットを出て、救急車に乗せられる。先生も救急車に乗っている。この救急車諏訪広域とか書いてある。救急隊員は「じゃあサイレン鳴らしますねー」とか言って、まさかの中央道・長野道を緊急走行。

救急車って結構揺れるんですね。初めて知りました。

そして救急車が行く先の病院の前で迷う迷う。カーナビ付いているのに迷う。そもそも行く病院に救急入口なんて小洒落たものはついていなかった。ボロいとにかくボロい。なんか窓に鉄格子ついてる。

点滴したまま児童思春期病棟につっこまれ、第一部終了。

広告を非表示にする